昨日で震災からまる3年が経ちました。震災直後、東北復興には仙台と石巻以外は予想以上に時間がかかると本ブログで述べましたが、残念ながら予想は当たってしまいました。黙祷をしながら、早い復興を祈るばかりですし、大切な人を失った心の傷が少しでも癒えるように願うばかりです。
さて、先週の日曜日は家内はお茶会・・・。
家内が遠州流のお茶会で小堀遠州が松花堂昭乗に描かせた?布袋図を見てきたそうです。足利御物の話も出たようです。
ん〜、松花堂昭乗の布袋図はたくさんありますが、どっかで記憶にあると思い検索したら、ずいぶん前に処分した(売却した)作品が出てきました。無論、氏素性のはっきりしない作品です。
布袋図 伝松花堂昭乗筆
紙本水墨紙装軸軸先塗合箱入
全体サイズ:縦1400*横300 画サイズ:縦620*横272
足利の御物はおそらく下記の作品のことでしょう。最初の頃は三幅とも牧谿筆と伝承されていました。
布袋・朝陽・対月図
布袋図 伝胡直夫筆 偃渓広聞賛(中)南宋時代 13世紀
朝陽・対月図 無住子筆 同賛(左右) 元時代 元貞元年(1295)
足利義満・豊臣秀吉所用 重要文化財 徳川美術館蔵
足利三代将軍義満が所持していたことを示す印が押されており、「唐絵」を代表する作品として、足利将軍家に伝来し、豊臣秀吉の手を経て徳川家康が所持しました。
家康から尾張家初代義直に譲られ、天下随一の名画として御成の床飾りに用いられました。童子が眠る袋を引こうとする姿の「布袋図」を中央に、朝に衣を縫う僧と月下で経を読む僧を描く「朝陽・対月図」を左右に配する三幅対です。
「布袋図」の方が「朝陽・対月図」よりも古く、もとは別々の作品であったものが、日本へもたらされて組み合わされたと考えられています。それぞれの絵に捺(お)された印章から、かつて足利将軍家の所蔵であったと知られ、江戸時代にも尾張家を代表する名宝として大切に伝えられました。
胡直夫筆 偃渓黄聞賛 無住子筆
こちょくふ えんけいこうもんさん むじゅうし
布袋図 縦83.9 横32.0 朝暘・対月図 各縦80.3 横32.1
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「布袋図」の筆者と伝えられている胡直夫は、中国の記録には見あたらず、日本でのみ知られている逸伝の人物です。
目と口などにだけ、わずかに濃墨を点じ、淡墨の柔らかな筆で朦朧とした表現がとられており、南宋初の画僧智融にはじまる罔両画様式が継承されています。
図上には南宋末の名画偃渓黄聞(1189−1263)の賛があり、製作期もほぼその頃とみられています。
「朝陽・対月図」は王逢う辰の対句にもとづいて、破衣を繕う僧と月の下で経を読む僧が描かれています。「朝陽」の賛には「元貞乙未夏午」、「対月」の賛には「無住子作并書」とあって、筆者は無住子、元の元貞元年(1295)の作と知られている。胡直夫同様、その伝記は不詳です。
「布袋図」「朝暘対月図」とは、本来無関係に製作されましたが、日本において三幅に組み合わされ、鑑賞されました。
なお、「布袋図」には足利義満(1358−1408)の鑑蔵印「道有」が、「朝陽・対月図」には同じく義満の鑑蔵印「天山」印が捺されており、かつては義満の所蔵品であったことがわかります。
初期には、三幅とも牧谿筆と伝承されていたそうです。足利義満−義政−徳川家康−尾張初代義直と伝来しました。
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松花堂昭乗筆の作品は数多く存在し、布袋図は特に作品が多いです。小幌遠州との関係を示す布袋の作品は下記のものがあります。
左右幅「惺々翁」 白文瓢形印「惺々翁」
中幅「南山隠士昭乗」 白文瓢形印「惺々翁」
松花堂昭乗筆
江戸時代初期の京都所司代・板倉勝重、重宗らを輩出した板倉家の菩堤寺・長圓寺に伝来する。男山八幡宮(石清水八幡宮)滝本坊の社僧で書家・画人・茶人の松花堂昭乗(1584?〜1639)が、伝説上または伝説的な三僧(左幅より岩頭、布袋、普化)を水墨で軽妙に描き、それぞれ上方に江月宗玩、玉室宗珀、沢庵宗彭の賛が付される。
別幅仕立ての小堀遠州(1579〜1647)から重宗に宛てた添状があり、表装を遠州が見立てたことが記される。
賛の3人の大徳寺住持は寛永4年(1627)の紫衣勅許取り消しに対して幕府に強く抗議し、流罪などの処分を受けた。対して重宗は京都所司代としてこれを取り締まり、裁断を行なう立場であった。
本図は、昭乗の落款「南山隠士」から、昭乗が松花堂に隠棲した寛永14年以降の、沢庵らと幕府との関係が良好となった時期のものと推定されるが、政治的立場、階層、分野を超えた融和の中で成立した寛永文化を象徴する作品である。
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松花堂昭乗は大徳寺龍光院蜜庵で、江月宗玩のために小堀遠州、狩野探幽とともに絵筆をふり、襖絵を描いています(床脇小襖絵)。
小堀遠州を師として遠州流を修め,その収集した茶道具は「八幡名物」と呼ばれ,後世「松花堂好み」として模されました。
小堀遠州は昭乗のために瀧本坊に茶室「閑雲軒」をつくっています。また小堀遠州の夫人の妹が、昭乗の兄、中沼左京に嫁いでおります。昭乗は56歳のとき背中の腫れ物が原因で亡くなりましたが、小堀遠州は伏見の自分の屋敷で療養させたとされています。
以上のように松花堂昭乗と小幌遠州は非常に親密な関係にあったようです。
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本ブログにもいくつか「布袋図」が登場しました。
当方のお気に入りは下記の作品です。
古画 布袋図
紙本水墨額装 画サイズ:横225*縦440
仙台の大観音で催された骨董市にて購入したものです。無落款ですので、作者も時代も解りませんが、時代は江戸時代以前かと推察しています。表具もなにもされておらずボロボロの状態でしたが、絵の出来がいいので購入したものです。
いつかは立派な表具にしてお茶会にてデビューさせたいものです。
布袋様の作品は下記の作品もありましたが、資金不足の時にやはり処分しています。小生の蒐集は処分と購入の繰り返しです。そろそろまた資金不足によりガラクタ処分の時期がまた来そうです。幾つ作品が手元に残るのでしょうか?
もうひとつ下記の作品も一緒に処分されています。
布袋図 伝祥啓筆
紙本水墨額装
画サイズ:横292*縦385
むろんこちらも氏素性は不明の作品です。御物のような高貴なものは小生のガラクタには仲間入りしないようです。
本日紹介しましたこの手放した二作品は「松花堂昭乗」の落款と印章や「祥啓」の印章がなければ、まだ手元に所蔵していたかもしれません。余計な肩書は不要なものです。
復興は被災した本人の心の強さがどうしても求められます。本当に大切なことは生き残った人が力強く、若しくはしぶとく、したたかでもいいから生きることです。生きる気力が少しでも芽吹くことを願います。
生きるという本当の中身・・・。袋は日用の一切を詰めた大きな袋と杖を持って、悠然と市中を歩いたので布袋和尚と呼ばれています。家や土地を失っても人は明るく生きられる。
さて、先週の日曜日は家内はお茶会・・・。
家内が遠州流のお茶会で小堀遠州が松花堂昭乗に描かせた?布袋図を見てきたそうです。足利御物の話も出たようです。
ん〜、松花堂昭乗の布袋図はたくさんありますが、どっかで記憶にあると思い検索したら、ずいぶん前に処分した(売却した)作品が出てきました。無論、氏素性のはっきりしない作品です。
布袋図 伝松花堂昭乗筆
紙本水墨紙装軸軸先塗合箱入
全体サイズ:縦1400*横300 画サイズ:縦620*横272
足利の御物はおそらく下記の作品のことでしょう。最初の頃は三幅とも牧谿筆と伝承されていました。
布袋・朝陽・対月図
布袋図 伝胡直夫筆 偃渓広聞賛(中)南宋時代 13世紀
朝陽・対月図 無住子筆 同賛(左右) 元時代 元貞元年(1295)
足利義満・豊臣秀吉所用 重要文化財 徳川美術館蔵
足利三代将軍義満が所持していたことを示す印が押されており、「唐絵」を代表する作品として、足利将軍家に伝来し、豊臣秀吉の手を経て徳川家康が所持しました。
家康から尾張家初代義直に譲られ、天下随一の名画として御成の床飾りに用いられました。童子が眠る袋を引こうとする姿の「布袋図」を中央に、朝に衣を縫う僧と月下で経を読む僧を描く「朝陽・対月図」を左右に配する三幅対です。
「布袋図」の方が「朝陽・対月図」よりも古く、もとは別々の作品であったものが、日本へもたらされて組み合わされたと考えられています。それぞれの絵に捺(お)された印章から、かつて足利将軍家の所蔵であったと知られ、江戸時代にも尾張家を代表する名宝として大切に伝えられました。
胡直夫筆 偃渓黄聞賛 無住子筆
こちょくふ えんけいこうもんさん むじゅうし
布袋図 縦83.9 横32.0 朝暘・対月図 各縦80.3 横32.1
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「布袋図」の筆者と伝えられている胡直夫は、中国の記録には見あたらず、日本でのみ知られている逸伝の人物です。
目と口などにだけ、わずかに濃墨を点じ、淡墨の柔らかな筆で朦朧とした表現がとられており、南宋初の画僧智融にはじまる罔両画様式が継承されています。
図上には南宋末の名画偃渓黄聞(1189−1263)の賛があり、製作期もほぼその頃とみられています。
「朝陽・対月図」は王逢う辰の対句にもとづいて、破衣を繕う僧と月の下で経を読む僧が描かれています。「朝陽」の賛には「元貞乙未夏午」、「対月」の賛には「無住子作并書」とあって、筆者は無住子、元の元貞元年(1295)の作と知られている。胡直夫同様、その伝記は不詳です。
「布袋図」「朝暘対月図」とは、本来無関係に製作されましたが、日本において三幅に組み合わされ、鑑賞されました。
なお、「布袋図」には足利義満(1358−1408)の鑑蔵印「道有」が、「朝陽・対月図」には同じく義満の鑑蔵印「天山」印が捺されており、かつては義満の所蔵品であったことがわかります。
初期には、三幅とも牧谿筆と伝承されていたそうです。足利義満−義政−徳川家康−尾張初代義直と伝来しました。
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松花堂昭乗筆の作品は数多く存在し、布袋図は特に作品が多いです。小幌遠州との関係を示す布袋の作品は下記のものがあります。
左右幅「惺々翁」 白文瓢形印「惺々翁」
中幅「南山隠士昭乗」 白文瓢形印「惺々翁」
松花堂昭乗筆
江戸時代初期の京都所司代・板倉勝重、重宗らを輩出した板倉家の菩堤寺・長圓寺に伝来する。男山八幡宮(石清水八幡宮)滝本坊の社僧で書家・画人・茶人の松花堂昭乗(1584?〜1639)が、伝説上または伝説的な三僧(左幅より岩頭、布袋、普化)を水墨で軽妙に描き、それぞれ上方に江月宗玩、玉室宗珀、沢庵宗彭の賛が付される。
別幅仕立ての小堀遠州(1579〜1647)から重宗に宛てた添状があり、表装を遠州が見立てたことが記される。
賛の3人の大徳寺住持は寛永4年(1627)の紫衣勅許取り消しに対して幕府に強く抗議し、流罪などの処分を受けた。対して重宗は京都所司代としてこれを取り締まり、裁断を行なう立場であった。
本図は、昭乗の落款「南山隠士」から、昭乗が松花堂に隠棲した寛永14年以降の、沢庵らと幕府との関係が良好となった時期のものと推定されるが、政治的立場、階層、分野を超えた融和の中で成立した寛永文化を象徴する作品である。
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松花堂昭乗は大徳寺龍光院蜜庵で、江月宗玩のために小堀遠州、狩野探幽とともに絵筆をふり、襖絵を描いています(床脇小襖絵)。
小堀遠州を師として遠州流を修め,その収集した茶道具は「八幡名物」と呼ばれ,後世「松花堂好み」として模されました。
小堀遠州は昭乗のために瀧本坊に茶室「閑雲軒」をつくっています。また小堀遠州の夫人の妹が、昭乗の兄、中沼左京に嫁いでおります。昭乗は56歳のとき背中の腫れ物が原因で亡くなりましたが、小堀遠州は伏見の自分の屋敷で療養させたとされています。
以上のように松花堂昭乗と小幌遠州は非常に親密な関係にあったようです。
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本ブログにもいくつか「布袋図」が登場しました。
当方のお気に入りは下記の作品です。
古画 布袋図
紙本水墨額装 画サイズ:横225*縦440
仙台の大観音で催された骨董市にて購入したものです。無落款ですので、作者も時代も解りませんが、時代は江戸時代以前かと推察しています。表具もなにもされておらずボロボロの状態でしたが、絵の出来がいいので購入したものです。
いつかは立派な表具にしてお茶会にてデビューさせたいものです。
布袋様の作品は下記の作品もありましたが、資金不足の時にやはり処分しています。小生の蒐集は処分と購入の繰り返しです。そろそろまた資金不足によりガラクタ処分の時期がまた来そうです。幾つ作品が手元に残るのでしょうか?
もうひとつ下記の作品も一緒に処分されています。
布袋図 伝祥啓筆
紙本水墨額装
画サイズ:横292*縦385
むろんこちらも氏素性は不明の作品です。御物のような高貴なものは小生のガラクタには仲間入りしないようです。
本日紹介しましたこの手放した二作品は「松花堂昭乗」の落款と印章や「祥啓」の印章がなければ、まだ手元に所蔵していたかもしれません。余計な肩書は不要なものです。
復興は被災した本人の心の強さがどうしても求められます。本当に大切なことは生き残った人が力強く、若しくはしぶとく、したたかでもいいから生きることです。生きる気力が少しでも芽吹くことを願います。
生きるという本当の中身・・・。袋は日用の一切を詰めた大きな袋と杖を持って、悠然と市中を歩いたので布袋和尚と呼ばれています。家や土地を失っても人は明るく生きられる。