相変わらず漫画チックな絵ですが、実に面白い。ずーっと、掛けて眺めていも飽きのこない作品です。異論のある方もおられましょうが。私はこの人の鴉はやはり名品だと思います。
同じような絵ですが、本作品で本ブログに四作品目となります。
枯木鴉之図 長井一禾筆 その4
絹紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 合箱入
全体サイズ:縦1970*横490 画サイズ:縦1070*横350
浮世師と説明にありますが、鴉以外の作品を観たことがありません。
一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎ととともに並び称せられたとありますが、大橋翆石の作品のように価格が高くなく、贋作も少ない(というより無い?)のでたやすく購入できる画家です。
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長井 一禾:(ながい いっか、明治2年(1869年)〜 昭和15年(1940年)。明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師。河鍋暁斎の門人。本姓は佐藤、姓は長井、または永井、一禾は本名であった。字は子行。瑞雲菴、反哺と号す。
明治2年(1869年)、越後国蒲原郡水原(現・新潟県阿賀野市)に生まれる。その後、東京に出て、初めは鈴木松年、中野其明、平福穂庵に師事し、円山派の画法を学ぶ。東京では下谷上野桜木町に住んだ。その後に、暁斎にも師事した。
鴉の絵の技法が妙を得、非凡であることを賞賛され、大隈重信から「鴉博士」の称号を贈られている。
明治36年(1903年)9月から5年間、渡米して絵を研究している。また、ポートランド博覧会に鴉の絵を出品、銀牌を受ける。イタリア博覧会の応接所には、尾形光琳風の鴉の絵を描いている。
その後、兵士として麻布三聯隊に入る。期が満ちて、新潟に帰ってからは、石油会社の社長となった。大隈重信に認められ、千鴉叢会を組織し、そのために郊外の天下茶屋に居を移した
。鴉の研究は、日本のものはもとより、アメリカ合衆国、朝鮮、中国、台湾など諸国の鴉にまで及び、その形態、動作など、鴉に関する知識は頗る深かった。
一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎ととともに並び称せられた。昭和12年(1937年)から翌13年(1938年)にかけて、京都府綾部市の楞厳寺に滞在し、庫裏の4つの座敷に春夏秋冬の鴉の絵を描いた。この襖絵は著名である。昭和15年(1940年)に没した。
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同じような絵ですが、本作品で本ブログに四作品目となります。
枯木鴉之図 長井一禾筆 その4
絹紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 合箱入
全体サイズ:縦1970*横490 画サイズ:縦1070*横350
浮世師と説明にありますが、鴉以外の作品を観たことがありません。
一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎ととともに並び称せられたとありますが、大橋翆石の作品のように価格が高くなく、贋作も少ない(というより無い?)のでたやすく購入できる画家です。
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長井 一禾:(ながい いっか、明治2年(1869年)〜 昭和15年(1940年)。明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師。河鍋暁斎の門人。本姓は佐藤、姓は長井、または永井、一禾は本名であった。字は子行。瑞雲菴、反哺と号す。
明治2年(1869年)、越後国蒲原郡水原(現・新潟県阿賀野市)に生まれる。その後、東京に出て、初めは鈴木松年、中野其明、平福穂庵に師事し、円山派の画法を学ぶ。東京では下谷上野桜木町に住んだ。その後に、暁斎にも師事した。
鴉の絵の技法が妙を得、非凡であることを賞賛され、大隈重信から「鴉博士」の称号を贈られている。
明治36年(1903年)9月から5年間、渡米して絵を研究している。また、ポートランド博覧会に鴉の絵を出品、銀牌を受ける。イタリア博覧会の応接所には、尾形光琳風の鴉の絵を描いている。
その後、兵士として麻布三聯隊に入る。期が満ちて、新潟に帰ってからは、石油会社の社長となった。大隈重信に認められ、千鴉叢会を組織し、そのために郊外の天下茶屋に居を移した
。鴉の研究は、日本のものはもとより、アメリカ合衆国、朝鮮、中国、台湾など諸国の鴉にまで及び、その形態、動作など、鴉に関する知識は頗る深かった。
一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎ととともに並び称せられた。昭和12年(1937年)から翌13年(1938年)にかけて、京都府綾部市の楞厳寺に滞在し、庫裏の4つの座敷に春夏秋冬の鴉の絵を描いた。この襖絵は著名である。昭和15年(1940年)に没した。
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